青春ヒーロー プレイバック 14

小山 稔物語

 

  チャンスに打てず   惜しい小山の力投

 倉敷工  000 000 000  0

 静岡商  011 000 000  2

 二塁打 中村 ( 倉敷工 ) 犠打 倉敷工3 ( 土倉 武 亀山 )

                       静岡商4 ( 藤波 小泉2 寺門 )

                   盗塁 倉敷工 0  静岡商 1 ( 青木 )

倉敷工は春に続いて、またしても決勝進出をはばまれた。静岡商得意のバント戦法に

苦杯をなめた。静岡商は、二回一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。

俊足の松島は判断良く三進。寺門は21後のウエストボール気味の球を、投手前に

スクイズ。松島が楽にホームを踏んだ。さらに、三回は、先頭の新浦四球に出たが、青木

の、投ゴロで二封された。青木はすかさず二盗。ここで、佐藤は12から倉敷工の深い

守備の裏をかいてドラックバント。これが内野安打となって、一三塁。藤波は11から

外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功をさせた。倉工バッテリーは

スクイズに来ると読んで、はずしたのだが、藤波の執念にしてやられた。ここらあたりに

高校野球でのバントの重要性をまざまざ見せつけられた。肩が痛いと言う 小山 だった

が、連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れも良かった。それだけに、わずかの

すきをついた静岡商のソツのない攻めは光った。この追加点は、連日炎天下で力投を

続け、気力だけで投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。新浦は長身

から快速球を投げこんで、当たっている倉工打線と真っ向から勝負して完封した。

倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。終盤、得点

にこそ結びつかなかったが、その粘りはたいしたものだった。惜しまれるのは、七回。

この回、小山の四球。中村のライト線二塁打で、無死二三塁と攻め寄った。ところが

ここで思いもよらぬ不運があった。富永の打球は一二塁線を抜いたかと思われたが

二塁手に横っ跳びに好捕されて、一塁でさされた。しかも、三塁走者の小山はいったん

ホームに突っ込みかけたが、コーチャーの静止があって三塁へ戻った。その間、中村は

すでに三塁へ。小山は、追い出されるような格好で三本間で挟殺された。まずい走塁

ではあったが、ここは二塁手の好プレーをたたえるべきだろう。結局、倉敷工は好機に

一発が出ず惜敗したが、速球投手 新浦 に対してバットを短く持ったミート打法、

そして、小柄な小山投手の力投などが、強く印象に残った。

                   昭和43822日 山陽新聞 角野 充氏提供

この、静岡商戦が、投手小山の実質的なラストゲームとなった。歯をくいしばって

投げ続けた高校夏の姿。小山と倉敷の熱い季節は終わった。この日、倉敷が泣いた。

 

    つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド ) 

      山陽新聞社  ( 灼熱の記憶 ) 

協 力  角野 充氏

      小山 稔氏

おいまつ会入会式

第68回卒業証書授与式を翌日にひかえた2月28日、倉工体育館において
「 平成28年度おいまつ会入会式 」が、厳かに行われました。今回は、354人
の入会者があり、おいまつ会は約25000人の大所帯となりました。
式では、吹奏楽部の生演奏により、校歌斉唱から始まり、日下 誠おいまつ会
会長の挨拶、そして楢原 靖おいまつ会名誉会長が挨拶を行いました。
ここから、いよいよクライマックスとなります。在学中、著しい活躍をした生徒さんに
表彰状授与となります。この表彰状授与は 『 科学技術文化功労賞 』と
『 スポーツ功労賞 』の2つの賞があります。一人一人名前を呼ばれ起立して
行く姿に、感動した次第です。そして、各代表者が登壇して 日下 誠会長が
表彰状と記念品を贈りました。そして、記念品贈呈では、受領者を代表して
斉藤 祐大君が登壇。また、新会員代表の挨拶や、おいまつ会役員の紹介
があり、最後は応援団のエールで、おいまつ会入会式を締めくくりました。
特に今回は、倉敷ケーブルテレビによる、テレビ取材があり、早速この日のうちに
放送されました。おいまつ会入会おめでとうございます。

【 科学技術文化功労賞 】
甲種危険物取扱者 資格取得
赤澤 拓磨
甲種危険物取扱者 資格取得
大熊 晃輔
甲種危険物取扱者 資格取得
奥山 加奈子
甲種危険物取扱者 資格取得
斉藤 裕大
甲種危険物取扱者 資格取得
中山 萌
中国地区第2回高校生溶接技術 ( 溶接技術 )競技会 優勝
豊田 和真
中国地区第2回高校生溶接技術 ( 圧力容器 )競技会 第3位
小柴 和哉
【 スポーツ功労賞 】
平成28年度全国高等学校総合体育大会 カヌー競技 第6位
原田 秦
平成28年度全国高等学校総合体育大会 ウエイトリフティング競技 第8位
赤木 聖真
敬称略  順不同
がんばれ 倉工   ようこそ おいまつ会へ

青春ヒーロー プレイバック 13

小山 稔物語

最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける、エース小山の力投で、倉工は春と同じく四強まで、勝ち進む。準決勝の相手は、同じ左腕の好投手 新浦 寿夫 投手を擁する静岡商。しかし、小山の肩は 広陵戦 後、ぼろぼろに。「 歯ブラシを口まで、持ち上げられませんでした。しかも、顔を洗おうとしても、手が顔まで上げられなくて、顔を手に近づけて行って洗いました。」 小山の肩は、悲鳴を上げているのだ。
宿舎から、甲子園までは徒歩で移動。途中ある高校のグランドで練習する事になった倉工ナイン。小山は、「10メートル先の相手に、ボールが届きませんでした。」 と言う。
母に誓った プロ野球選手。消え行く少年の日の夢。 小山は、絶望の中、球場入りしたのだった。
準決勝は、第2試合だったため待機をしていた。そこへ朝日新聞社の記者がやって来た。
「 小山君、小山君。明日の決勝戦は、 興国 と 倉敷工業 に決まっているようなもんなんで、 興国 の丸山君と握手をしている写真を撮らして下さい。今、撮っておかないと、明日の新聞に間に合わないんです。」そう言われた小山は、「 興国は、まだ試合中だし、うちはまだ試合をやっていないし、そんな事をしたら、監督さんに怒られます。 」そう言うと、記者は、「 小沢監督には、了解をもらっているから、大丈夫です。」
小山は、記者に連れられて、まだ試合途中の 興国エース 丸山 朗 投手と握手を交わした。こうして、迎えた準決勝、対 静岡商戦 だったのである。
絶望の小山は、グランドの中に入り、ある光景を見た瞬間、あれほどまで痛かった肩の痛みを忘れた、と言う。小山が、見た光景とは何か?。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。そして、アルプス席から聞こえて来る、大声援。「 小山!、小山!頑張れよ!。小山!。 」 大応援団と、大声援が小山の中に飛び込んで来て肩の痛みを忘れたと言う。「 火事場の、馬鹿力です。 」と、小山は言うが、果たして本当にそれだけだったのだろうか?。いや、もう一つある。小山を支えるもの。小山を支え続けて来たものがある。それは、倉工のエースナンバー1のユニホームであったはず。倉工エースの誇り。
決して本調子でなくても、あるいは序盤に打ち込まれても、投げ続けるのが本当のエース。
マウンドを守り続けるのが、倉工エースの宿命なのだ。小山は、倉工エースの宿命を背負っている自覚を、持っていたのではなかろうか。
こうして、準決勝 対静岡商 との試合が始まった。
マウンドの小山のもとから、各ポジションに散るナイン。

つづく   随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考
瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 12

小山 稔物語

野球への探求心が、旺盛な角野。その角野が、エース小山の投球について次の様に語る。
「小山の球は、回転が綺麗なんです。回転がいいからよく球が伸びるんです。しかも、打者の手元でホップするんですね。そして、落差のある縦へのカーブがあるんです。ですから、ホップするストレートの高さと、低めに決まるカーブ、高さと低さを武器にした投球が、持ち味なんです。」と熱く語る角野。
これに対して、エース小山は、「私の、手や指そして肘や肩が、硬式のボールに合っていたんでしょうかね。」と。
事実、エース小山の手の指は、短く太い。

第50回全国高校野球選手権大会
一回の守備につく倉工ナイン。エース小山が、甲子園のマウンドに上がる。
藤川が、捕手席に座る。残りの7人の侍は、小山のすぐ後ろで円陣を組む。
エース小山が、投球練習を開始しようとした時、掛け声と共に、各ポジションに走る7人の侍。

3回戦    倉敷工 9 - 2 高知  小山6勝め

主砲 武 のバットが火を噴いた。4回大会13号ホームランとなる、3ランを左中間スタンドに叩き込み、この回一挙8点を上げ、勝負を決める。

準々決勝  倉敷工 6 - 3 広陵  小山7勝め

この日、第4試合でナイターとなった。
広陵のエースは、( 小さな大投手 )の異名を持つ、左腕宇根洋介投手。
身長167㎝で、甲子園8勝している、宇根投手を、倉工打線は序盤で攻略した。
1回2回3回に、各1点。4回には2点を上げ、試合の主導権を握り、粘る広陵を振り切る。
甲子園に流れるアナウンス。
【勝ちました、倉敷工業高校の栄誉を称え、同校の校歌を斉唱し校旗の掲揚を行います。】
五万の観衆の歓声がとどろく、大甲子園のセンターポールに緑の校旗がはためく。
『水島灘の 沖ゆく白帆も・・・・』 大甲子園にこだまする勝利の賛歌。いつ聞いても、どこで聞いても、そして歌っても「 いいなあ 」と感じる。

そして、8月21日 準決勝 静岡商 との対戦の朝が来た。

つづく 随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考
瀬戸内海放送 番組「 夢 フィールド 」
山陽新聞社「 灼熱の記憶 」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 11

小山 稔物語 

栄冠は君に輝く。 全国高校野球選手権大会の唄。
「 雲は湧き 光あふれて・・・・ 」
1948年に発表された。1948年の学制の改定に伴い、さらにこの時の大会が1回大会から数えて30回めの節目の大会であった事から、主催者の朝日新聞社が、新しい大会歌として、全国から詩の応募を募った。応募総数5000以上の中から最優秀に選ばれたのが、元高校球児の 加賀大介氏 が作詞したこの【 栄冠は君に輝く 】だった。

 50回全国高校野球選手権大会。
196889日から822日まで開催。
球史半世紀を祝う記念大会として開催された。開会式に、皇太子夫妻を招いた。
45都道府県から各1校。北海道は南北から各1校。さらに、米国の統治下にあった
沖縄から、1校を加え、48校が甲子園に集った。

昭和4389日。倉工ナインは、開会式直後のオープニングゲームに登場。
文部大臣の始球式の横に立つエース小山。そして、エース小山が投球練習を開始しようとした時、マウンドの小山の元から、掛け声とともに、各ポジションに走るナイン。

1回戦  倉敷工  5 - 1  享栄   小山4勝め

倉工は9安打の中、二塁打2本、三塁打1本に盗塁4個を決めて、快勝。

2回戦  倉敷工  8 - 0  千葉商  小山5勝め

倉工は、初回4点、五回に3点。打っては16安打した。しかし、千葉商の左腕今井投手に、9三振を喫する

倉敷の商店街では、不思議な現象が起きた。白壁の町は、倉工の試合時

商店街から、人影が消えたのだ。町中は、テレビにクギづけ。勝利に湧く倉敷の町。
そして、最後の夏。肩の痛みこらえ投げ続ける、エース小山。
倉工ナインは、大優勝旗に向けて突き進む。

つづく 随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
瀬戸内海放送  「 夢 フィールド 」
山陽新聞社   「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック 10

小山 稔物語

「 昭和43年のチームが、史上最強のチームです。」と小山は、胸を張る。
俊足巧打の 土倉。 バントの名手 山口。 強肩捕手で主将の 藤川。 不動の4で長打の主砲 武。 エース小山は、右打席でも左打席でも打てるスイッチヒッター。
広角打法の 中村。 意外性の男 富永。 2年生のレギュラー、チーム一の張り切り男岡本。 渋い打撃が魅力の 亀山。 さらに、野球を愛する心は誰にも負けず、また野球への探求心が旺盛な 角野。この角野が、3塁コーチャーズボックスに立ち、ランナーをホームへと導くのだ。そして、倉工のエースナンバー 1 をつけた 小山 の力投。
甲子園への視界は良好。 ライバルは、エースで4番の 奥江秀幸選手(大洋ホエールズ入団)のいる、岡山東商。まさに、闘魂と百戦錬磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突になるのは、必至の予選である。こうして、史上最強チームの夏が始まった。

50回全国高校野球選手権大会 岡山県大会
50回大会記念大会として、全国都道府県の代表校に、沖縄の代表を加えて48校が甲子園切符をつかむのだ。

2回戦   倉敷工 6 - 0 岡山日大

3回戦   倉敷工 4 - 1 理大附 

準々決勝  倉敷工 10 - 6 笠岡商

準決勝  倉敷工 2 - 0 倉敷商

決勝は、ライバル 岡山東商。岡山県の二大都市、岡山市の代表 岡山東商。
倉敷市の代表 倉敷工業。両校の戦いは、早慶戦の様な特別なものがあるのだ。
岡山県高校野球黄金時代の絶頂期である。
先攻を取った倉工は、一回表 4番 武 が2点タイムリーで先取点を上げる。勢いに乗る倉工は、五回にも 武 の2点タイムリーで4点。主砲 武 が4打点の大活躍で快勝。
投げては、エース小山が完封。倉敷は、市民の大歓声に包まれたのである。
そして、倉工ナインは小沢監督を胴上げして、喜びを爆発させたのだ。
甲子園2年連続6回め、前人未到の 4季連続甲子園出場を果たしたのである。

決勝  倉敷工  4 - 0  岡山東商

母に誓った、プロ野球選手。少年の日の夢。一抹の不安を抱えながら肩の痛みをこらえて投げ続ける 小山。深紅の大優勝旗をつかみに、史上最強チームが聖地へと向かった。

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4季連続甲子園出場を決め、小沢監督を胴上げする倉工ナイン。
写真の、一番右にいるのが、 4番 武 渉選手

 

つづく  随時掲載

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本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考
瀬戸内海放送 番組 「夢 フィールド」
山陽新聞社      「 灼熱の記憶」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

 

正門から母校を見て

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正門付近から、正面玄関を見ますと思わず目に飛び込んで来る大きな物があります。

それは、今年全国大会に出場した各部の懸垂幕であります。いったい何本あるのかと数えてみました。すると、国民体育大会が2本。全国高校総合体育大会が5本。全日本卓球選手権大会など、7本もあり合計14本の懸垂幕が掲げられていました。

その懸垂幕を目にした時、「 やっとるな!」 「 がんばっとるな!」 と感じずにはいられません。近年、県立高校にとって、また文武両道を目指す倉工にとって全国大会の舞台に立つ事は非常に厳しいものがあると思います。その難関を乗り越えて晴れの全国大会に出場した選手の皆さん、おめでとうございました。また、惜しくも全国大会に出場できなかった選手の皆さんも、その悔しさを持って卒業できる事はとてもいい事です。どうか、その悔しさを忘れずに、また悔しさをバネに代えて各方面で頑張って下さい。それにしても、懸垂幕に登場した各部をはじめ、毎日毎日選手の指導に汗を流されている顧問、監督さんには、本当に頭の下がる思いです。

今後も、おいまつ会は懸垂幕にも注目して行きます。

がんばれ 倉工
 目指せ文武両道
    倉敷工業

祝 国民体育大会出場
カヌー部
水泳部

祝 全国高校総合体育大会出場
陸上競技部
ウェートリフティング部
   カヌー部
卓球部
水泳部

祝 全国高等学校ボーリング大会出場
ボーリング

祝 高等学校選手権大会
ボーリング

祝 高体連加盟全国高等学校選抜大会
ボーリング

祝 全日本卓球選手権大会
卓球部

祝 全国高等学校選抜大会
卓球部

祝 全国高等学校7人制ラグビー大会
ラグビー部

祝 全国高等学校弓道選抜大会
弓道部

青春ヒーロー プレイバック 9

小山 稔物語 

昭和43年の倉敷市。工業都市として、みぞうの発展を遂げ また 観光都市としても全国にその名を知られる。水島コンビナートでは連日フル操業が続く。
こうした中、倉敷のシンボルとして、あるいはアイドルとしてその存在価値を高めて行く倉工野球部。 「今度こそ、全国制覇を。」 と、倉敷市民は熱い期待を寄せるのだった。
特に、エース小山に寄せる熱い期待と信頼は絶大なものであったに違いない。
「倉工のファンは、熱狂的で特別なファンなんです。」 と小山。「練習を終えて帰宅していると ( 小山、今帰っているんか。気をつけて帰れよ。) とかですね、( おおい、小山がんばれよ。)とね。」 「毎日、たくさんの人が声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。」と、小山は言う。小山は、今現在も感謝の心を持ち続けている。
全国制覇に向けて走る、倉工ナイン。当然、練習の厳しさも一日一日と増して行く。

グランドの周囲には、のどかな田園地帯が広がっていた。田んぼからは、カエルの鳴き声が
聞こえる。ところが、その田んぼの中にボールが飛び込んで行く事があった。すると部員たちは先を争う様に田んぼの中のボールを拾いに行くのだった。当時は 「水をのんでは、いけない。」と言われていた時代。ところが、部員たちは何と、田んぼの水を飲んでいたのである。
小山もその一人。 「田んぼの中に、ボウフラがいましてね。そのボウフラを手でかき分けて手で田んぼの水をすくって飲みました。もしかしたら、一匹や二匹のボウフラを飲んだかも知れませんね。」と、苦笑いする小山。田んぼで農作業をしていた、おばさんがその光景を見て「 まあ、可哀想に。倉工の野球部は田んぼの水を飲んでいる。 」と、周囲に漏らしていたのも事実である。その、おばさんが田んぼに農作業に出かける時、麦茶を用意してボールを拾いに来た部員に、そっと飲ませていた事もあるそうである。そして、 「倉工、頑張って。」と、一声。 倉敷に満ち溢れるエネルギーと、歩を合わせる快進撃を、いや 全国制覇を倉敷市民は期待していた。

つづく     随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

       山陽新聞社   「灼熱の記憶」

協 力   小山 稔氏

部活動訪問 書道部

文字は、 はじめ文化の進展につれ、美的に表現される方法が生まれました。
その書道は、人間修養の一方法でもあります。


おいまつ会による、部活動激励訪問。
今回は、第68回倉工文化祭で、書道パフォーマンスを発表している、書道部を訪問させて頂きました。
書道部は、8人の部員 (女子3) で、週3回の練習を行っていて、岡山県書道展にも出展し、多くの入賞者を出しています。訪問日は、文化祭と言う事で、多くの見学者がいる中、ステージ場で音楽に合わせ大きな筆で一気に書き上げる様子は迫力十分。書道部部長の、河村 智史君 (3) は「部員を増やしていき、楽しい書道部にして行きたいです。」と、抱負を語ってくれました。顧問の、速水 昌子先生は、「もっとモチベーションを上げて、やる気を出してほしい。」と、今後の活躍を期待していました。

おいまつ会も、書道部の今後の活躍を期待し、応援して行きます。頑張って下さい。

がんばれ 倉工 輝け 日本の伝統文化  倉工書道部

P1000036 P1000037 P1000027

 

倉工文化祭 おいまつ会OB展開催

倉工パワーが爆発しました。
68回倉工文化祭が、111819日に盛大に開催されました。一般公開日になった19日は、朝からたくさんの来場者でにぎわいました。おそらく、昨年よりも多くの来場者であった様に思います。おいまつ会館では、今年も 【おいまつ会作品展】 を開催しました。
同窓生の絵画、書道、彫刻作品、さらには野球部の甲子園出場記念のペナントの公開もありました。こうした中、野球部 小沢 馨監督の遺品店を公開しました。
小沢監督の、倉工時代の投球フォームの写真パネルをはじめ、甲子園初出場した時の数々の写真パネル展示。また、甲子園出場が決まって、ナインから胴上げされている写真。
さらには、多くの表彰状や感謝状もあり、訪れた方々が、足を止めて見入っていました。
こうした中、昭和4243年と4季連続甲子園出場した時の選手で、角野 充さんと小山 稔さんが、遺品展の前で再開。当時の想い出話に花が咲いていました。
角野さんは、「監督さんは、怖かったです。監督さんが、グランドに来られると身が引き締まる思いでした。」と、当時を懐かしく語ってくれました。

故 小沢 馨監督のプロフィール

昭和24年、倉工が甲子園に初出場した時の主将であり、エース。この時の監督は三宅 宅三氏 (玉島商 - 明治大)。準々決勝で、3年連続優勝を目指す、小倉北を破り、ベスト4まで進出。この時の、小倉北のエース福島 一雄投手が、甲子園の土を一握り持ち帰った事が、 (甲子園の土) の始まりと言われている。
卒業と同時に、甲子園で3本のホームランを打った、チームメイトの 藤沢 新六捕手と大阪タイガースに入団するも、一年で退団。社会人野球の強豪 日鉄二瀬 に移籍。
移籍してすぐに、倉工から監督要請をうける。20歳の時だった。倉工監督としての甲子園デビューは、昭和32年の選抜。この時ベスト4まで進出し賞賛を浴びる。
昭和50年の選抜が、小沢監督最後の甲子園だった。全国の壁は厚く、ベスト43が最高成績。 【知将 小沢】 【勝負師 小沢】 の異名を持つ。
甲子園での17勝は、岡山県の高校を率いた監督としては、最多である。倉工の名前と共に、倉敷の名を全国に広めた第一人者と言えるだろう。

P1000009 P1000040P1000010 P1000018 P1000020  P1000001 P1000004 P1000007